京都の交通事故に関して、多くの識者や団体が論評しています。事故の原因や加害者の病状については、今後の捜査に待たねばならないし、軽々に結論を出すことは控えるべきでしょう。しかし、診療の中でてんかん患者さんと接している一専門医として、日頃考えていることをこの機会にHP上に載せさせていただきます。
1)今回の加害者のような運転が、てんかん発作中に可能かどうか
運転中にてんかん発作(多くは軽い意識障害を主体とする場合)を起こし、「どこを運転したか想起できないのに、気がつくと自宅の前に停まっていた」という陳述を患者さんから聴いたことはあります。車体に軽いへこみがあったので、どこかにぶつけたのか思い、家人と出発地点から自宅前まで(と、おぼしきルート)をたどってみるとガードレールにぶつけた跡があった。ここで自損事故を起こしたのかと思ったが、まったく覚えていないとのことでした。運転中以外にもこのようなエピソードが複数回あるとのことでした。したがって、発作中であっても(さらに発作に引き続く発作後もうろう状態であっても)、それなりの運転は可能ではあるように思います。ちなみにこの患者さんは、初診でしたので、それまでは抗てんかん薬は服用していませんでした。したがって薬による眠気などは否定的です。その後治療により発作は消失しています。運転の可否、制限については十分に説明しています。現在は運転されていません。てんかん発作(いわゆる「前兆」などを含めて)をまったく想起できない患者さんは決して稀ではありません。一人暮らしや他人との付き合いがほとんどない方は、発作を持っていることに気づいていない方もおられるでしょうし、運転されているかもしれません。
2)てんかん患者で、意識障害を伴う発作やけいれん性の発作が消失していないのに運転をしている患者さんへの対応
悩ましい問題です。注意を喚起して道交法上の規制を説明して、運転禁止について厳命しても、該当するすべての患者さんがその規則を守ってくれていると確信できる医師はいないでしょう。しかし、これは2002年の道交法改正以前からあったことです。例を述べればきりがありませんが、2年以上まったく発作がなくても、薬を飲み忘れたために発作が起こった、アルコールを飲みすぎた翌日発作になった、などのエピソードも時々は、耳にします。このような患者さんについては、その後の生活習慣の修正をきちんとアドバイスすればうまくいくことが多いです。問題はこちらの注意やアドバイスに耳を貸さない患者さんも時には存在するということです。生活上の注意や社会的規則を守ってくれそうにない患者さんは受診して欲しくはないのですが、診療拒否はできません。また、せっかく頼ってきてくださった患者さんを無下に断るわけにもいきません。さらに言えば、このような患者さんに対してこそ、生活習慣を正して規則的に服薬し、法を順守してもらえるように私たちが真剣に向き合わなければならないのかもしれません。
3)第三者機関の設置
私はこの際、このような患者さんについては、運転免許について、きちんとした指導をしてもらえる第三者機関を設置して、そこへの医師からの通報を患者さんの了承を得なくても(もちろん了承を得るのが望ましいが)可能とするシステムを構築できればと思います。個人情報の保護という観点からは、患者さんの了承なしに病名等を他人に口外することは絶対にできません。まして、免許関係とはいえ、警察に通報するのは、犯罪がらみでないとまずは不可能です。患者団体の関係者、福祉や医療関係者、自動車事故に携わる各分野の方々などからなる第三者機関に連絡をとり、そこから当該の患者さんに連絡をしてもらい、事情を聴取して、相談にのってもらうということです。該当する患者さんはそんなに多くはないので、費用対効果の面では、行政がすべての経費を丸抱えすることは困難でしょうが。
4)自動車の改良
さらには自動車の改良も必要かと思います。運転中に意識障害を起こす可能性のある方には、視線が定まらないような状況になれば、自動的にエンジンを停止し、ブレーキがかかるようなシステムを搭載した車でないと運転できないようにするなどです。車内の警告音については、自分で意識を取り戻すことは不可能なので有効性は低いと思います。周囲の運転者に事態の変化を知らせるにはクラクションを鳴らす、ハザードランプを点灯させる、さらにオートロックの解除なども同時に開始することも必要かと思います。このようなハード面の改良は一朝一夕には困難でしょうが、なんとか、多くのてんかん患者さんの利便性や社会活動の制限をより強くすることのない方策を検討してもらいたいものです。
5)2014年の道路交通法改正とその後
2014年の道路交通法改正後の問題点については「診療の合間に(4)」の記事を参照ください。しばらくしてからこの項にも追記したいと思います。
南方熊楠はてんかんであったか?
臨床てんかん学、特に成人てんかん分野における碩学の扇谷明先生(京都市せんごくクリニック、元京大精神科助教授)から二つの論文を送っていただきました。末尾にその題名等を記載しておきます。論文1)が掲載されているNeurology誌はアメリカ神経学会会誌で臨床神経学の分野では国際的に最も有名な雑誌です。論文2)は日本精神神経学会会誌に載ったものです。この二つの論文は南方熊楠(以下熊楠)がてんかんを患っていた根拠を異なる側面から検討しています。和歌山が生んだ天才がてんかんであった可能性について、この二つの論文を私なりに要約・紹介しながら論じてみたいと思います。
論文1)では阪大医学部に保存されている熊楠の脳をMRIで撮影し、側頭葉の一部である海馬に左右差があり、右の海馬が左に比べて小さい、すなわち萎縮していることを指摘しています。これは側頭葉てんかんでよく見られる所見であるので、熊楠の人生におけるいくつかのエピソードも踏まえて、彼が側頭葉てんかん(右側焦点)であったと論じています。
論文2)では扇谷先生ご自身が、熊楠に関する膨大な資料や日記、全集などを熟読玩味し、てんかん発作と思われる記載などについて検討しています。扇谷先生によると熊楠がてんかん発作と考えられる症状をもっていたことは1987年に公刊された日記で明らかとなり、内科医である近藤俊文先生の著書(「天才の誕生:あるいは南方熊楠の人間学」、岩波書店、1996)に初めて記載されたとのことです。近藤先生から扇谷先生に熊楠のもっていたてんかんやその発作症状について臨床てんかん学の観点から検討して欲しいとの要請があったとのことです。
熊楠のてんかん発作が最初に目撃されたのは19歳の時(18歳時より激しい頭痛で寝込むことがあり、扇谷先生はこれらの中にてんかん発作後頭痛が含まれているとし、18歳をてんかん発症年齢としています)でした。「大発作」(強直間代けいれん)と考えられる症状についてはこれを含めて日記で明らかなものは3回、家人による目撃が1回は記録にあるとのことです。この他に当時はてんかん発作とは考えられていなかった、意識減損や自動症を伴ういわゆる「複雑部分発作」や、意識減損に至らない「てんかん性前兆」(単純部分発作、信号症状とも表現される)に関する記載は多数存在するとのことです。彼の前兆は特徴的で、既視体験(デジャ・ビュ)に類似しているが「以前にあったと感じるだけではなく、すぐ次に起こることがわかる予知的感覚」もあったとのことです。熊楠自身がこの現象を"promnesia"というほとんど使われることのない専門用語で記述しているとのことで、この語を記載した専門書に目を通していたようです。この他、熊楠の性格や行動、思考を特徴づける攻撃性、過剰書字、粘着性、宗教的・哲学的なことへの関心、異性への関心の希薄さ、自身の主張する倫理的規範と実際の行動との乖離などについても言及し、これらがてんかんをもっていたと周知されている文豪ドストエフスキーの性格や行動と類似していると考察されています。
このように、実在する保存脳の解析、さらにてんかん症候学の第一人者である扇谷先生の病跡学的検討ですから、熊楠がてんかんをもっていた可能性については十分に考えられると思います(扇谷先生は側頭葉てんかんであったと断言されているのですが)。私が気になる点のひとつは保存脳では右海馬の萎縮はみられているが、通常の生体脳のMRIで側頭葉てんかんによくみられる海馬硬化所見については言及されていないこと、二つ目は熊楠自身が全く治療的介入を受けていないてんかん患者であるとすると、てんかん性前兆(彼の場合はデジャ・ビュ的なもの、単純部分発作)が好発している年齢には、当然前兆に引き続いて起こるであろう意識減損や自動症的症状(複雑部分発作)や大発作(二次性全般化けいれん)が多くなることが考えられますが、彼の場合は前者と後二者の好発年齢に乖離があるように思われることです。この点について扇谷先生は熊楠自身が前兆以外の発作を終了後に想起できていないことや家族が発作について隠そうとしていたことなどを指摘されています。
いずれにしろ熊楠の死亡(1941年)から半世紀以上経ってもその病歴や脳に興味が注がれているのは彼が希有な天才・巨人であった証左でしょう。今後も新しい知見がもたらされることに和歌山県人として期待したいと思います。
なお、この紹介記事を書く上で、論文著者の扇谷明先生、古田浩二先生、ご子息の古田浩人先生(和医大第一内科講師)のお手を煩わせました。ここに改めて御礼申し上げます。
1)Murai T, Hanakawa T, Sengoku A et al. Temporal lobe epilepsy in a genius of natural history: MRI volumetric study of postmortem brain. Neurology; 50: 1373-1376, 1998.
2)扇谷明.南方熊楠のてんかん:病跡学的研究.精神神経学雑誌.第108巻第2号,2006年).
<2006年日高医師会報への寄稿原稿より転載>
追記:扇谷明先生は2010年泉下の客となられました。古田浩二先生もその後逝去されました。
不安障害、気分障害、強迫神経症などでお悩みの方、一度奥田英朗さんの本を読んでみてください。
「イン・ザ・プール」、「空中ぶらんこ」、そして最新刊の「町長選挙」です。
主人公は伊良部総合病院院長のどら息子であり、型破りの精神科医、伊良部一郎(大?)先生です。
マザコン、注射フェチ(看護婦が患者に栄養注射をしているのを、横でみて興奮する)、大食漢、メタボリックシンドローム体型、医療倫理破綻者ですが、来院した患者は最初は伊良部大先生のはちゃめちゃな物言いと態度に怒りととまどいを隠せないものの、なんとなく彼の外来のリピーターになり、それぞれの精神的悩みから解放されるというストーリーです。
彼は大病院の御曹司で、別に患者をたくさん診なければならないわけではないので楽しく医者をやっているようです。
「町長選挙」はあまりおもしろくないので、最初に読むのは以前に出た2冊のうちいずれかをおすすめします。