医療法人すこやか会 おおたにクリニック

おおたにクリニック
【御坊市の小児科,内科,神経内科,心療内科,リハビリテーション科

〒644-0023 和歌山県御坊市名田町野島1-7
TEL 0738-29-2951

診療の合間に 1

「母子保健奨励賞への感謝を込めて-私と母子保健-」
「股関節脱臼と赤ちゃんの向き癖について」

診療の合間に 2

「てんかんと自動車運転、運転免許」
「南方熊楠はてんかんであったか-扇谷明氏の論文から-」
「奥田英朗氏の著書にみるこころの病気」

診療の合間に 3

「てんかん診療と病診連携」
「開業医と発達相談」
「天地有情ー南木佳士のこと」

診療の合間に 4

「日本てんかん協会機関誌「波」の記事より」
「メディカルクオール2014年11月号、12月号より」

診療の合間に 5

「這えば立て(日高野67号)]
「小児期・青年期患者の地域ケアを考えるセミナー」案内文
 

 

※上記QRコードを読み取っていただきますと、一般の携帯からは携帯サイトが、スマートフォンからは、スマートフォンサイトが閲覧可能です。

診療の合間に 3

てんかん診療の病診連携

てんかん診療にも診療所と専門機関との連携が必要になります。なかなか発作が止まらない患者さんについては、専門機関できちんと評価(治るか治らないか)してもらうことが必要です。特に問題となるのが、画像(MRIやPET)、発作型の再評価や、外科的治療の適否です。薬物治療に関しても治りやすいてんかん患者さんについては、ほとんど第一選択薬で発作は治まりますので問題は少ないのですが、治りにくい患者さんの場合は経験と洞察力を必要としますので、専門医のセカンドオピニオンをおすすめします。また、薬剤による副作用、特に多動についてはお子さんによくみられますので、薬を飲み始めて落ち着きがなくなったり、1歳前から薬を飲んでいて、歩き始めて妙に落ち着きのない子どもさんの場合は薬を疑ってみてください。また、以前に比べて難治てんかんの患者さんに手術をおこなう施設が増えていますが、必ずしも神経内科や精神科、小児科などと連携がうまくいっていない(つまり脳外科サイドの診療のみで手術の適応を判断してしまう)施設もあるようです。患者さんは治るならばと、手術に望みを託しがちですが、効果と危険を十分に考えて、医師の話を納得いくまで聞いてください。
 少し古いですが、私が「てんかんセンター(国立静岡てんかん・神経医療センター」に再評価をお願いした患者さんたちについてまとめた文章(研究会の抄録)を以下に載せておきます(漆山会誌、第12号、2002年既出)。

はるか静岡に想いを馳せて--てんかんセンターへ紹介した患者から教えられたこと--
地域でてんかん患者を診療している医師にとって、難治てんかんの患者の処遇には難渋することが多々ある。てんかんセンターの存在は患者のみならず、医師にとっても有り難い存在である。今回は過去にてんかんセンターへ紹介したことによって私自身が教えられたことが多かった症例、すなわちてんかんセンターへ紹介することによって、患者の病態の把握や治療・予後が大きく変化した症例を中心に検討したので報告する、セミナー参加諸氏からもご意見をいただければ幸いである。提示するのは8例であるが、私がてんかんセンター研修中に担当した症例も2例含ませていただいた。症例はepilepsia partialis continua(EPC)、cortical dysplasia(CD)による未決定てんかん(UDE)、同じく側頭葉てんかん(TLE)、同じく前頭葉てんかん(FLE)、染色体異常によるUDE、硬化像のあるTLE、器質病変のないFLE、潜因性LE(atypical benign partial epilepsy; ABPE)である。これらの症例の紹介時の年齢、紹介までの経過は様々である。教えられたことの第1は画像所見についてである。地域の医療機関で画像診断(主としてMRI)を施行し、神経放射線科医による読影が行われているにもかかわらず異常が指摘されず、てんかんセンターにおいて初めて異常を指摘された症例が4例あった。うち1例は外科的治療によって発作が消失しており、1例は現在手術目的で入院中である。てんかん患者の画像には豊富な経験に裏打ちされた撮影条件の設定と読影技術が必須であると痛感している。第2は手術適応および手術年齢である。多脳葉性のCDで手術した2例は発作の著減や運動発達の軽度の改善はみられたが、知的面はあまり変化がなかった。より早い段階での手術が適切であったのかもしれない。EPCの症例は未手術であるが、発症初期に手術ができていればと思う症例、CDによるFLEは高用量PHT(フェニトイン)にて発作は抑制されているが、血中濃度が20μg/mlを下回ると発作がみられることがある。このままいいのかと考えさせられる症例である。器質病変のないFLEはほぼ20年間姿勢発作が日に数回持続しており、外科的治療を考慮中である。小児難治てんかんの外科的治療は画像診断の進歩とともに近年積極的に行われるようになったが、その結果比較的年齢が高くなって手術が行われたり、手術ができずに成長してしまった症例も気になるものである。今後、合理的な手術適応基準やその年齢の設定が早急に求められているが、反面、外科的治療至上主義の台頭にも注意が必要ではある。第3は染色体検査についてである。てんかんセンターから報告された20番環状染色体による特異なてんかん症例のうち1例は私が紹介したものである。変質徴候の目立たない患者でも特異な発作症状のある例は染色体検査を行うべきと反省した。第4はAEDs(抗てんかん薬)の使用方法である。ABPEの症例については十分に考えたもののうまく治療できず、入院後PHT単剤という私にとっては予想外の治療によって改善した。AEDsの種類は限られているから誰が治療しても同じだと広言する医師もいるが、難治例の用法には蓄積された経験と多くのスタッフによる議論から生まれる「ART(匙加減?)」が厳然としてある。セカンドオピニオンという意味でもてんかんセンターを積極的に利用する価値はあると思われる。上記高用量PHTのFLEまた然りである。

 

開業医と発達相談

--市立保育園障害児保育専任医の活動について--
Developmental Assessment and Counseling of Children with Mental Health Complaints in the Nursery Schools by General Pediatrician
(外来小児科、第9巻、第2号、2006)



はじめに
和歌山県御坊市は人口約27,000人の小規模自治体であり、2004年までは障害児通園事業を行う施設がなかった。代わりに市立の4保育園が多くの障害児を受け入れ「統合保育」の名の下に障害児保育を行っていた。この「統合保育」は保育園、保護者双方にとって不安や不満の多いものであった。1996年に御坊市で開業した筆者は、1998年より市から「障害児保育専任医(以下専任医と略す)」を委嘱された。今回は1998年4月から2005年3月までの専任医として相談にかかわった子どもたちの実態を報告し、その意義と課題、就学前障害児保育のあり方について考えてみたい。

方法(専任医の活動内容)
保育園側は、まず専任医の相談対象者を選択し、保護者の同意の下で書面で専任医に連絡し、保護者にも相談日を通知する。専任医側は書面で通知された内容をあらかじめチェックし、決められた日に保育園(2004年までは4保育園、2005年より保育園の統合があり3保育園)へ出務する。保育園での子どもの様子を観察した後、園長、担当保育士、保護者、園児との面談を行う。また必要に応じて病院、保健所、療育機関、市の発達相談などへの紹介や照会を行い、後日相談の結果について簡単な報告書を提出する。保育園における相談だけでは不十分な場合は後日個別相談、電話相談を随時実施し、時には保育士との合同検討会を持つようにした。また、専任医は保育園側の代弁者ではなく、保護者の悩みや望みが保育園側に伝わりやすいよう配慮した。

結果
1998年4月から2005年3月までに専任医として相談に応じた園児は57人、のべ相談回数は136回であった。一人あたりの面談回数は1回から6回であった。面談時間は1回につき約1時間であった。対象となった相談児の診断で最も多かったのは明らかな基礎疾患・合併症を伴う知的障害が18人、ついで原因を特定できない知的障害が16人であった。さらに広汎性発達障害が9人、注意欠陥多動性障害と多動を主な症状とする園児が5人、知的障害とはいえない発達の遅れが4人であった。その他、低出生体重児、低身長、肥満、構音障害、指吸いを症状とするものが各1人であった。18人の基礎疾患・合併症を伴う知的障害の内訳を表1に示した。ダウン症やてんかん、脳性麻痺の合併児が比較的多くみられた。表2に示したように基礎疾患や合併症を有する園児に知的障害が重度なものが多くみられた。知的障害のみの園児は比較的知的障害が軽いものが多かった。広汎性発達障害の園児は知的障害の軽いものと重いものに分かれた。

考察
旧厚生省の指針によれば、人口約30万を目安に障害児療育支援施設を整備することになっている(厚生省児童家庭局長通知、1996年5月)1)。しかし和歌山県中・南部の小規模自治体では、障害児を保育園に受け入れて、「統合保育」を行っているところが多く、御坊市も例にもれなかった。また、表1,2にみられるように障害児の持つ疾病や知的障害の程度は様々であり、保育士らが常に「統合保育」の保育や療育内容にとまどいや不安を感じていることが推測できた。このような状況下で、専任医は保育や療育、発達面や生活面へのアドバイスの他に、病院や保健所など保育園外のさまざまな施設や職種との専門的な情報交換を仲立ちすることになった2)。
専任医の活動によって得られたことをまとめてみると以下のようになる。1)知的障害や対人関係、てんかん発作、薬の副作用など園児の持つ疾病や障害に対する保育士の理解が進んだ、2)多動などの症状、発達レベル、画像所見、服用薬剤など主治医への照会や他医への紹介が適宜行えるようになった、3)発達相談などのために他施設に園児を紹介するための保護者からの同意が得られやすくなった、4)保育士と保護者間の問題意識の差異が明らかとなった、5)保育園での観察は診察室とは違った子どもの側面がみえる、6)保育士の姿勢や保育内容に面談後に変化があった、などである。
一方でいくつかの限界や課題も浮かび上がってきている。すなわち、1)専任医の活動時間に制約があり能力的限界もあること、2)他職種との連携がまだ不十分でありケースミーティングなどの機会がないこと2)、3)保育士が担える療育には限界があること、4)専任医が初めて面談する保護者には我が子の障害への理解や認識に乏しいことがあり、面談の過程で軋轢を生じやすいこと3)、5)就学に向けての小学校や養護学校との連携がほとんどとれないこと、などである。

まとめ
和歌山県御坊市という小規模自治体の専任医の活動について報告した。7年間に57人、のべ136回の面談を行った。保育園に出務して相談にのる専任医活動は、障害を持つ子どもたちの実態を知り、より具体的、個別的な援助を行うために有用であり、自治体規模の大小にかかわらず、今後全国的にすすめられるべき活動と考えられた。
なお、2004年には御坊市および周辺自治体の援助や社会福祉法人の尽力により障害児通園事業が具体化したことを追記しておく。
本稿の要旨は第15回日本外来小児科学会年次集会(2005年8月、大阪)にて発表した。

文献
1)伊藤利之.地域(早期)療育システム.陣内一保、他編.こどものリハビリテーション医学.東京:医学書院、1999:384-388
2)稲垣真澄、他.発達障害児に対する医療・福祉資源の活用と連携の現状-第1報 専門医師と施設・他職種間の連携について-.脳と発達 2004;36:241-247
3)佐鹿孝子、他.親が障害のあるわが子を受容していく過程での支援-障害児通園施設に来所した乳幼児と親への関わりを通して-.小児保健研究 2002;5:677-685


表の説明
表1.基礎疾患・合併症を伴う知的障害児(18人)の内訳

表2.知的障害の程度と疾病群の関係

 

天地有情-南木佳士(なぎけいし)のこと-

医者で物書きは古今東西結構多い。最近有名なところでは「遠き落日」や「失楽園」の渡辺淳一御大、新進気鋭では海堂尊、久坂部羊、さらに変わった経歴では帚木蓬生などの名前があがる。これらの作家に比べると南木佳士の作品のモチーフやストーリーにはあまりエンタテイメント性はない。しかし私はそれなりの魅力や親しみを感じ、愛読している。第100回芥川賞受賞作家である南木佳士は1951年10月生まれ。私と同学年である。彼が1年浪人して医学部に入ったこと、田舎育ち(上州)であること、数学はどちらかというと好きではなかったこと。共通点はただそれだけであるが、市井の医学生・医者として同時代を生きてきたことに思い入れがあるのかもしれない。
もう一点、敢えて理由を挙げるとすれば、開業してお年寄りの診察を始めたことがある。小児科は新生児や悪性腫瘍を専門にしないかぎりは勤務医、開業医を問わず死亡診断書を書くことはほとんどない。私は小児神経を専門にしていたので、年に2-3人の障害児を看取ることはあったが、たまに書く死亡診断書にとまどうことが多かったくらいである。しかし、開業した地域柄もあって、小児科だけでなく内科も標榜したので、お年寄りも診察することになった。そうなると「死」は茶飯である。病院に紹介してそのまま亡くなる方、一旦は退院して在宅で亡くなる方、昨日診察に来ていたのに今日は訃報を聞くことになるなど、私と患者の「死」を仲立ちにした接点に濃淡はあっても、一人の知り合いがこの世に存在しなくなることに変わりはない。極端な例では往診して初対面で臨終の宣告ということも一度ならずあった。南木佳士は後述するように自らの人生や経験を独特の切り口で、叙情豊かな文脈に構成させる私小説を得意とする作家である。また、患者の生き様やそれに呼応する周囲の人々の行動や思いを見つめ、そこに自身の心情を重ねた小説やエッセイも多く、共感するところが随所にあり、涙することも稀ならず経験する。もっともやや冗長かつトートロジー的表現が多いという側面もあるのだが。
読み始めたのは開業してしばらくした頃、カミさんが、御坊市立図書館の借り出しカードを私の分まで作って、彼の「阿弥陀堂だより」を借りてきたことに始まったと記憶している。この本は寺尾聡、樋口可南子の主演で映画化されたので、彼の作品としては断トツに有名である。その後は図書館にある彼の単行本をカミさんが無作為に借りてくるものを読んでいた。したがって手元に彼の著作はなく、唯一岩波新書の「信州に上医あり」があるくらいであった。最近になって大阪のジュンク堂で、彼の単行本の多くが文春文庫の新書で再出版されていることを発見して、新書なら安いし場所もとらないだろうと全て購入した。彼がどのような作品を上梓するか、どのような姿勢で物語を紡ぐかについてはいろいろなところで自らが述べている。「人の死を日常茶飯事として扱わねばならない医師という業(ごう)の深い仕事に手を染めてしまった『わたし』の正気を保つために、『わたし』の日常をだれかに知ってもらいたかった。臨床の第一線に立つ医師は美人の看護婦と恋愛したり、教授選挙の運動にふりまわされているわけではなく、世間の善人たちが病院に押し込めて目を背けている人の老病死を毎日見ている。人間の生の終わりをこれでもかこれでもかと見せつけられている。そういう極限状況下の『わたし』を、虚構を駆使して開示する小説を書きたかった。それは医学ミステリーでもなければ官能小説でもなく、除外の結果として純文学に行き着くものだったから、発表するのは純文学雑誌と決まっていた。」(「トラや」)。この文章には、先述した最近話題の医師で物書きの何人かを意識した気持ちが垣間見える。
彼はあくまでも医者を続けながら執筆活動を続けたいようであった。芥川賞受賞作の「ダイヤモンドダスト」のあとがきには「今回、思いがけない賞を受賞したが、身についたライフスタイルを変えるつもりはない。足が大地に根づき、厚い岩を割る。そんなところに見えてくる人と風景を書きたいから、今後もおなじようなスロウペースで、足もとを確認しながら書き続けていくつもりである。」と記している。「ダイアモンドダスト」文庫版に収載された、精神科医でもある作家の加賀乙彦との対談の中でも「風景や人物描写にはリアルなモデルがないとダメなので、病院の外へ、取材が必要になると、臨床と両立は無理だなと思います。なるべく医者の方をやっていきたいなというのが本音ですね。」と述べている。
しかし、彼が「うつ病」に倒れた後の作品「家族」の中には、妻の立場を借りて「病院住宅の近所に土地を買って家を建てたのは1年前です。それまで、夫は私たちが生まれた村の診療所に赴任するかどうか迷っていたのですが、健康に自信をなくしたのと、子供たちを転校させたくないとの思いと、いざとなったら筆一本で食べていくのだとの決意を固めたみたいです。」と書いている。呼吸器科医である彼にとって臨床の場は小説の題材ではあるが、絶えず人の死に直面する修羅場でもあったのだろう。二足のわらじを履き続けてはいるが、今は健診を主体に、死との接点はきわめて少ない後衛に甘んじている。苦しみながらも筆を執りつづけていたことが、彼の生をかろうじて支えていた時期があったことは想像にかたくない。臨床より筆の方が彼にとっては「業の浅いわらじ」なのかもしれない。しかし、その「業の浅い」筆の創造源は、「業の深い」臨床の中にある。
「裏山の墓地で、頭上にのしかかってくる緑の森の前縁から降るセミしぐれのなか、母や祖母の苔むした墓の前にしゃがんで手を合わせているときだけ、尻のあたりから全身にかけて不要な力が抜け、深い安らぎを覚える。死者たちは永遠の不在であることによって、こちらの好きに語りかけられる、透明な輪郭だけの懐かしい者たちとして墓石の前で合掌するときにのみ身のうちに在る」(「トラや」)。彼は生まれ育った上州にある父祖伝来の墓地に新しく墓碑を建立したとのことである。銘は「風」。新井満作詞で、紅白で秋川雅史が歌ってブレイクした「千の風になって」が知られるはるか前である。今は亡き親しく懐かしい者たちの魂は墓にあるか、はたまた天空はるかかなたからこちらをみつめているか、人それぞれに想いがあろう。しかし、生前には愛憎、好悪相半ばした死者との会話は、墓前に立ってみて初めて成り立つのかもしれない。そして、そのような時こそ彼らの思い出は透明な輪郭に昇華して身のうちに現れるのかもしれない。
そんなことを考えながら「死ぬ前に墓を建てようか?」とカミさんに問わず語りの一言を発したら、間髪を入れずに、「今の墓守だって大変なのにこれ以上墓を増やすなんてどういう了見なの!」と一蹴されてしまった。彼女は死者との会話などという空想を排して、私よりはるかに長く人生を歩み続けるつもりのようである。
<(和歌山小児科医会誌 第33号、2010)より転載>